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プロローグ

 

 夢の中というのは、ふわふわとして、曖昧で、優しい。

 パステルカラーの世界に、私の好きなものが揃っている。

 お気に入りのオルゴール。

 少しだけ贅沢なソファ。

 いい香りのする紅茶。

 そこで私は何も考えず、その雰囲気に身を委ねている。

 ぼうっと、あるがままに。

 時計の針さえ眠るような、心地良いまどろみの中、不意に誰かの視線を背後に感じる。

 けれども、それは不快なものではない。

 何だろうか。

 私はゆっくりと振り返る。

「翔……?」

 木漏れ日のように揺らめく光の中、懐かしい顔が私を見ている。

 けれども彼は、どこか悲しそうな、寂しそうな表情を浮かべて、微妙に私から視線を逸らす。

「翔……」

 その名を口にして、軽く口ごもる。

 今さら過ぎる、どうせこれは夢なのだ。

 ゆっくりと立ち上がるが、私はここから動かない。

 視線の先にいる翔も、私の方に近づいては来ない。

 触れたらお互いに消えてしまいそうな、そんな距離。

「元気そうね」

 次に漏れた言葉が、あまりにも馬鹿馬鹿しいそんなものだった。

 元気なわけがない。

 一番分かっているはずの自分、なのに口を突いて出たのはその一言。

 もっと優しい言葉や、いっそ女の子らしく泣きじゃくる方が、よっぽど相応しいはずなのに。

 こんな時すら、私はこれなのか。

 思わず自嘲気味に口元が歪む。

「ねえ、覚えてるでしょう。

 私、亜紀よ」

「…………」

「こういうときに無口なところも、あなたは変わらないのね」

「…………」

 自分でも嫌になるほど、可愛げが無い。

 強くなりたいと願って、強くなったつもりの自分。

 翔の目には、今の私はどんな風に映っているだろう。

 もっと言いたいことはあるのに、思わず口をぱくぱくさせて、馬鹿馬鹿しくなって閉じてしまう。

 金魚みたいな自分が、少しだけ恥ずかしくなる。

「今まで何してたの? 遠くに行って、それっきりだったけどさ」

 私の言葉に、少しだけ視線を私に向ける。

 でも、すぐにまたばつが悪そうにうつむいてしまう。

 遅刻した時、宿題を見せて欲しい時、そんないつもの翔の悪い癖。

「ごめん、私も少し感情的になっちゃって……

 ねえ、こっちに来てよ。

 お茶もお菓子もあるわ」

「…………」

 返事をしようともしない翔。

 少しだけ不安になる。

 けれども、どこか現実離れした今を、私は半ば諦観して見ている。

 まるで、フィクションのテレビドラマを観ている、どこかの誰かのように。

「久しぶりだけど、元気そうね」

「…………」

「あの時の約束、覚えてる?」

「…………」

「何か言ってよ……何でさっきから黙ってるの?」

 私にしては珍しく、やや感情的な言葉を口にした。

 けれども、翔は視線を私に戻そうともしない。

 ただ、寂しそうな目が、私の不安を余計にかき立てる。

 胸騒ぎと、胸の鼓動がそれを加速する。

 たまらなくなって目を逸らし、ぎゅっと唇を噛みしめる。

 このままじゃだめだ。

 もっと向き合わなきゃ。

 だって翔は――

「翔……そうだわ、確か……あなたって……」

 全てを思い出した時、彼の姿がうっすらと消えていく。

 まるで光に溶けていくように、徐々に輪郭はぼやけていく。

「そっか、そうよね」

 手を伸ばそうとして、私は思いとどまる。

 何も言わないまま、彼は私に背中を向けた。

 思いが溢れるのに、裏腹に冷静さは増していく。

 もっと行動で示したいのに、足はまるで、石になったように私をその場に釘付けにする。

「何だか悔しいわ、このまま終わってしまうなんて」

「…………」

「そうね、あなたの好きなグラタンだって私は上手く作れるようになった。

 欲しがってた手編みの手袋も、ちゃんと完成させたわ。

 ああ、あと大学にも合格したのよ」

 少しぐらいは、彼の心に触れるかも知れない。

 そんな風に思いながらも、淡々とした言葉が口からこぼれる。

 もっと素直になればいいのだろう。

 最後に言葉も交わせない

 涙も笑顔も無い。

 まるで仮面が喋ってるみたいだ。

 そう思って瞬きをした後、現れるのは見慣れた天井と、消えたまま、朝陽に照らされる蛍光灯。

「ああ……また……」

 体を横たえたまま、目元に手を持ってきて、私は深く溜息を吐く。

 同じ夢、もう何度目だろうか。

 指折り数えるのさえ、馬鹿らしくなるほどに。

 高校時代の恋人、翔。

 忘れようとして、忘れたつもりになっていた。

 けれども、無理はどこかで歪みを生み出す。

 きっとそれが、この夢だろう。

 その恋は、片思いから始まって、半年と二八日後に私から告白し、始まる。

 少しだけ幸せな日々が続いて、クリスマスも、バレンタインも、ホワイトデーも、夏休みも、たくさんの思い出を作った。

 それで、二年生の十月に翔の転校が決まる。

 少しだけ受験に集中しよう、お互いに。

 それで、また春に再開したら、一緒にカフェでも行こう。

 少しだけ長い、恋の秋休み。

 私は笑顔で翔を見送ろうと、あの日の朝も家を出た。

 いつも通りの住宅街、時計の針の動きは正確で、挨拶を交わす声も、駅のホームも雑踏も、何一つ変わらなかった。

 少しの別れと、新しいスタートを確かめ合うために。

 なのに、そんな秋休みは永遠となった。

 新聞なんかで見かける、よくある事故。

 珍しくもない、単なる交通事故。

 そう、珍しくなんて、ない。

「今さらにも、程があるでしょう……」

 寝起きの目を軽くこすり、胸一杯に朝の空気を吸い込む。

 背伸びをして、もう一度ベッドに身を横たえる。

 少しだけ、笑顔が下手になった気がする。

 昔より、感情を表に出すのが苦手になった。

 いや、鈍っただけなのかも知れない。

 目覚まし時計を見て、出勤時間を確認する。

 普通の大学生らしい日常を取り戻そうとして、私はカフェ「ノスタルジア」でアルバイトを始めた。

 それで、少しだけ社会に触れることもできた。

 店長も同僚のウェイトレスさんもいい人達で、私はきっと幸せだ。

 なのに、ぽっかりと空いた心の穴は、どうやら埋まっていないらしい。

「疲れてるのかな、私」

 涙が流れるかな、そんな風に思う。

 けれども、思っただけ。

 私の涙は今、あくびをした時くらいしか、出てきてはくれない。

 今日も乾いた頬を、軽く指でなぞる。

「着替えなきゃ」

 誰に言うでもなくつぶやく。

 スケジュールのセットされたロボットのように、私は身支度を始める。

 思い出は、まるで割れたガラスだ。

 拾い集めても、元の窓には戻らない。

 新しいガラス窓から見える景色にも、そろそろ慣れた頃だろう。

 もう、思い出の中で迷子になったと、泣いている子はどこにもいない。

 いないはず。

 だって、私の頬は乾いているから。

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